そんなに興味ないか

いつものように目を覚ます。つまりひどい倦怠感と軽い頭痛と日々濃くなる目の下のくま。睡眠時間はおよそ3時間。眠い。

睡眠時間が短いと、今日は新しい今日ではなく昨日のお古になる。中古のような今日にはちょうど今日みたいな曇天が似合う。

カーテンを開けながらそんなことを考えたような考えていないような。とにかく眠い。機械的に歯を磨き、機械的に顔を洗う。水の冷たさに悪態をつくがこれもほぼルーティンワークだ。

タオルで顔を拭いて洗面台に置いてある時計を見る。いつも通りの時間であることを確認して、そのまま尿意に従いトイレに向かう。

用を足しながら急に不安になる。何か違うような。なんだろうか。鏡に映った自分だろうか。さっき鏡を見たはずだが何も思い出せない。違和感と焦燥感。じょろじょろと呑気な尿の音を聞きながらもどかしい気持ちは募る。トイレから出るなり洗面台に引き返して、アーッ!と声が出た。

おでこに「ミート」と書いてある。思わずそっちか…と言ってしまう。いったいなぜ。誰が何のために。寝る前にはこんなものはなかった。そうなのか?自信がない。昨日の自分が思い出せない。昨日は鏡を見ただろうか。思い出せない。

誰かが忍び込んで書いたのか?まさか。何のために。はっと気付き、急いで鞄の中の財布を探す。大丈夫だ、多分揃っている。部屋のなかをくまなく見たが異常は無さそうだった。窓の鍵もかかっているし、ドアのチェーンもかかっている。

どうしよう。警察か?いや、誰も信じてくれないだろう。何も盗らずにミートとだけ書いただなんて。そもそも記憶が怪しい。どうしていいかわからず頭を抱えてしまう。

そうだ。どうしよう。今日休んだ方がいいんだろうか。いや、今日は朝一で客との打ち合わせがある。あー。なんだこれ。どうしようどうしよう。遅刻しそうだし。あーもー。とりあえずこの字を消そう。

洗面台で石鹸で擦り洗うも字は消えない。なんだこれ、マジックなのか?消える気配がしないぞ。皮膚が窪んでいる感じすらある。爪先で引っ掻き、額が真っ赤になって血が滲みはじめたところで止めた。無駄だこれ。

とりあえずスーツに着替えてみたものの、部屋のなかを行ったり来たり、そろそろ出なければ遅刻だが。あー。これで出るのか?本当か?これが口や鼻ならマスクで隠せるんだが…。いや、いけるんじゃないか?

マスクをして額に引き上げてみた。ないな。うん。わかってたけどあり得ないな。ひどいなこれ。アーッ!!絆創膏だ!絆創膏だ!絆創膏どこだ!?うわー!透明のしかねーぞおい。俺のバカっ!あーもうなんだ、アーッ!!ガムテープだガムテープ!!天才じゃね?俺、天才だろ。

取り急ぎガムテープを額に貼ってみると案外目立たない。仕方ないがとりあえずこれでいこう。

遅刻気味なので若干急ぐ、額に手を当てながら急ぐ。ビジュアル系みたいで恥ずかしかったが、電車でも特にじろじろ見られている訳ではないようだ。都会の無関心さは素晴らしい。コンクリートジャングル大好き。

それにしても暑い。走ったせいだろうが、汗だくだ。時計を見るとぎりぎり間に合いそうだ。駅からは更に小走りで会社に間に合った。

額に手を当てながら部屋に入る。気恥ずかしかったのだが特に誰も反応しない。これはこれでちょっと来るものがある。とりあえず机についたものの、世知辛いなあ。しかし言わばここはホームなので、額から手を離した。と、そのときガムテープが剥がれる。汗で剥がれてしまったようだ。そのとき新人が来客を知らせに来たので振り向いてしまった。

あー!見られた!ミートを見られた!ミート何て知らない世代に見られた!笑ってくれるとありがたいがと思いつつ顔をひきつらせて反応を見る。無表情!まさかの無表情!これがゆとりか!すげーなゆとり!

慌てて取り繕う。いや昨日なんかマジックで書かれたみたいでさ。恐る恐る顔色を伺う。うわー!興味ないんでいいですって!!すげー!すげーぞこれ!!こんな反応ありえるのこれ?ミートだよ?おでこにミートだよ?なんで生きてるのこの人?なにこれこわい。

そうこうしてるうちに客が来た。アーッ!!ミート!!ミート!!ミート!!なにかなにかなにか貼るものないか!アーッ!!付箋紙!付箋紙!黄色い付箋紙!!貼るのこれ?貼っていいのこれ?どっちがマシなのこれ??

とりあえず付箋紙をおでこに貼ってみたらピラピラする。なんだこれ!!付箋紙!ピラピラ!下からミート!付箋紙!ピラピラ!下からミート!アーッ!!もうだめだこれ!!ぞあー!もういい。このまま行く!

おでこに手を当てながら会議室へ向かう。どうされました?頭痛ですか?あー。これだよなこの反応が普通だよななどと思ってしまう。この客とは比較的気心が知れた関係だ。冗談の言い合いくらいはできる。酔って馬鹿しちゃってと言えば通じるだろう。通じるかなあ??本当に通じるのか?

席を勧めながら考える。よし、先手必勝で笑いをとってしまおう。あのーじつは昨日やらかしまして…と言いながら額から手を離す。何をですか?ん!?額を指差しながら、これなんですが…。ああ、擦りむいておられますね。それで額を押さえてらっしゃったんですね。大丈夫ですか?ん!?んん!?あの、ミートですよ?はあ。ミートと言いますと?ん!?んん!?額にミートって書いてありませんか?はあ。そうなんですか?いやいやいやいや!書いてあるでしょう!つい語気が強くなる。

その後15分ほど問答を続けたが本題に入れと言われてしまった。混乱したままなんとか打ち合わせを終える。ではよろしくお願いします。お加減よろしくないようですが休まれてますか?と言われた。

部屋に戻る道すがら先程の新人に出会ったので捕まえておでこを指して聞いてみたら興味ないんでやめてくださいと言われた。おまえ泣かすぞ!

その足でトイレに向かう。納得が行かない。汗で消えたのだろうか。トイレで鏡を見るとくっきりはっきりミートと書いてある。なー!そうだよなー!なんだか少し嬉しいのが悔しいが確実にミートと書いてある。

走って部屋に戻るとすぐそこにいた女の子に聞いた。これ見てこれ!えーなんですかー?これだよ!ミートだよね?明らかにミートだよね?はあ。ミートってなんですか?肉?そう!そうだよ!肉だよ!でもミートだよ!すみません、ちょっとわからないんですけど??なんで?ミートだよ?肉って言ったじゃない!ミート見えたんでしょ!?ミート見てよ!きちんと見てよ!目をそらさないでよ!

声が大きかったのか他のやつが寄ってきた。ちょ、ちょっとどうしたんですか?声大きいですよ。なにがミートなんですか?いや、私よくわからないんですけど。おい、ちょっと見てよミートでしょ?はあ。何がミートなんですか?ちくしょー!!おまえもか!!!!なにこれドッキリなの!?お前ら頭おかしいんじゃないの?もうやだ!ほんとやだ!泣くぞ!俺は泣くぞ!

どうやらやり過ぎたようだ。人だかりができた。これはあれだ。なんか俺が悪いパターンのやつだ。なんで、なんでこうなるんだ。とりあえずビシッと頭を下げて勘違いでした!申し訳ありませんでした!と言ってみた。恐る恐る顔をあげて様子を伺う。そのとき人だかりの一人が、あ!と声を上げた。あの、おでこ大丈夫ですか?血が出てますよ?アーッ!!嫌いだお前ら!!!!

そのまま会社を飛び出してみたが特に行く当てもない。道行く人々がひそひそと何か言っている。これはもしかして、こいつらには見えてるのか??あの、突然失礼しますが、私のおでこに何かついてますか?はあ。血が出てますよ。大丈夫ですか?なんじゃこらー!!!!!お前ら馬鹿!ほんと馬鹿!あほー!!

周囲の空気が変わった。これはヤバイやつだ。本当にだめなやつだ。空気が引き潮に変わったのがわかる。音が聞こえそうだ。逃げなきゃ。どこか。どこか。

走りながら何かが込み上げてきて顔がぐしゃぐしゃになる。辛いのか悲しいのか悔しいのかわからない。とにかくすべての感情が顔から溢れ出しそうで、それを必死で堪えている。涙も鼻水も垂れ流している。前もよく見えないがとにかく走る。家に帰りたい。ただそれだけ思っていた気がする。そのとき何かに足を引っかけて盛大に転んだ。

思わず叫んだ。アーッ!!嗚咽が込み上げる。その場でしゃっくりのように泣く。ただただ言葉にならない声で泣く。どれくらい泣いただろう。ここはどこだろう。俺はどうなったんだろう。落ち着いてくると現実に引き戻される。

そのときハンカチが差し出された。少しぷにぷにした小さな手。だいじょうぶ?なんでないてるの?見上げるとランドセルを背負った黄色い帽子の子供が何人か興味半分恐ろしさ半分と言った顔で覗き込んでいた。へんなのー。ミートだってー。ほんとだ。へんたい?へんたい?そのまま子供特有の叫びだか歓声だかわからない声を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。もちろんハンカチは貰えなかった。

泣いた。心が震えた。ついさっきまでこの世の終わりみたいに泣いていたが、今度はこの世に生まれたみたいに泣いた。へんたいとよばれてこんなに嬉しいとはまさか思わなかった。そうだよな。ミートって書いてあるよな。ミートって書いてあったらへんたいみたいだよな。のどの奥から笑い声が温泉みたいに湧いてきた。

その後もミートという字は消えないままだ。実験を重ねたがどうやら大人には見えないものらしいことだけがわかった。病院にも行ったのだが、何しろ大人には見えないので何科に行っても精神科を紹介されてしまう。大人社会では不都合はないので、いまでは諦めて過ごしている。ちなみに例の新人には実はミートが見えていたことが分かったのだが、本当に興味が無いだけだと後日聞いた。